2021年03月15日

知ってください!麻那古の春日神社!!

麻那古の春日神社
所在地:佐賀市富士町大字麻那古




●神社
祭神 天照大神 武甕棺命 經津主命 田凝姫命 国常立尊 国狭槌尊 児屋根命 大山祇命 保食神 新田義貞
 桓武天皇の延暦12年(793)9月21日の勧請で、当社は麻那古村の内字月越に鎮座、麻那古大明神と唱えていたが、永禄7年(1564)仝村の長老今坂美作村民と相謀って、村内の中央の現地に奉遷し、社号を春日神社と称した。明治6年村社となる。祭神田凝姫命外五柱の神は無格社合祀により追加された。
出典:富士町史下p.391〜p.392




天井絵も残っています。





●地域のはなし
 麻那古春日神社境内の狛犬の台座には、献納・麻那古・中原氏子中、明治三十三年四月と刻まれており、これからしても麻那古の内だったと言うことではないだろうか。
 しかし、これが大野区の春日神社へ氏子代わりをしていて何時代わったのか定かではないが、大野春日神社の狛犬の台座には御即位記念として、奉献者に岩井俊平・陣内味不味・嘉村美津羅・藤田實・原口善太郎・杵島惣平の氏名が、また灯籠の台座にも同じく大野の人と共に刻まれていて、大正四年十一月十日とある。拝殿内の奉献されている絵馬の1つに中原区の人と名前と大正2年の記入がある。これからすると、明治の終わり頃には氏子代わりができていたのではなかろうか。嘉村美津羅氏は、若くして郡会議員・村長・県議会議員となられ又再度、村長(大正8年〜昭和4年)をされるなど職見も政治力もあった方で、この時代に代わったと思われる。これは明治になって、枝村から離れ大字中原となったことや、麻那古へ峠を越えての参詣など大変であったことなどからではなかったかと思われる。嘉村美津羅氏が手腕を発揮して相談された結果、氏子代わりが出来たようである。
出典:富士町史下p.772

獅子が逆立ちしています。


こちらは立っています。ちょっと珍しいと思います。


●地図
  
  • LINEで送る


Posted by 21世紀県民の森  at 14:27Comments(0)富士町情報

2021年03月11日

知ってください!上熊川の雄渕雌渕公園!!

雄渕雌渕公園
所在地:佐賀市富士町大字上熊川・小副川




雄渕雌渕公園は、熊の川温泉と古湯温泉の中間地点に在り、明治の晩年までは、北山の木材流しや筏流しで最大の難所と恐れられていた。
たまたま大きな木材が右岸雄渕の洞窟に突っ込めば、再び浮上しない程深渕と言われている。水面下の洞窟には、誰も入った者はなく、様々の伝説や逸話を残し、今なお神秘のベールに包まれたままである。
川上川の鮎もこれより上流へは上ることができないので、その下流の集落を「鮎の瀬」と呼んでいる。
明治32年(1898年)、長崎県波佐見金山会社の鮎の瀬発電所(現雄渕トンネル南架橋下)が建設され、「水から火が出る」世にも珍しい。と見学者が詰めかけ、発電所と共にこの地の名声が更に広まった。
また、中国の医師で文学者郭沫若も、熊の川温泉滞在中に、この地を訪れたので、これを記念し昭和57年10月、この地に建立した「郭沫若先生記念碑」は、淡々と音立てて落ちる雄渕の滝、悠々と流れる雌渕を静かに見守っているかのようである。
因みに碑文は、中日友好協会初代会長の廖(りょう)承志先生(早大中退)の手によって書かれている。
記念碑の北方約100mの地点に架けた鳴瀬橋は、昭和59年(1984年)完成した斜張橋で、真紅に燃えるような色彩は緑の自然の中でひと際目立ち、蒼い深渕と調和美を誇っている。
なお、国道323号線雄渕トンネル下方約100mの地点に、弘法大師ゆかりの地、「御手洗の滝」がある。
富士町史 234~235頁より






郭沫若先生記念碑


遊歩道



淡々と音立てて落ちる雄渕の滝





●地図
  
  • LINEで送る


Posted by 21世紀県民の森  at 10:55Comments(0)富士町情報

2021年03月03日

知ってください!古湯の原初枝!!

天才少女歌人 原初枝 歌碑
所在地:佐賀市富士町大字古湯



原初枝(本名松江)は、明治27年7月22日旧南山村古湯に生まれ、女学生時代より短歌の道にいそしみ、その天才的な歌は当時、日本少女の友社の認めるところとなり、月々誌面を飾ったという。明治43年京城の女学校4年のとき天才にはつきものの胸(肺)を病むところとなり、学業半ばにして臥床する身となり、唐津へ転地療養していたが、ここで明治44年12月13日、看病中の母親原勇子女史が逝去し、病床の初枝の悲しみはその極に達し、病床より這い出して冷たくなった母親にとりすがり、嘆き悲しんだという。その時の詠草に、
「雪降れりこたつに入りていま一度おとぎ噺をのう母上よ」と詠んでいる。
その後、初枝の病も篤くなり、明治45年3月19日遂にこの世を去ったのである。享年19歳。
この悲報を知った、東京の少女の友社より駆けつけて、この天才少女歌人を惜しんだという。翌月の誌上には追悼の記事が載せられ、続いて原初枝歌集が単行本として本社から発刊されている。その後七回忌に少女の友社より墓標の写真を撮り、原初枝七回忌号として誌上を飾っている。
墓は古湯の太梅院の墓地に在る。
この短歌に感動した貝野の山中濶氏は、富士小学校の児童の情操教育の一助にと考え、校庭に歌碑を建設。建設工事費全額を負担した。昭和61年8月23日、盛大に原初枝歌碑除幕式が挙行された。
出典:富士町史下 p240~p241




旧富士小学校体育館




●地図
  
  • LINEで送る


Posted by 21世紀県民の森  at 13:29Comments(0)富士町情報

2021年03月02日

知ってください!下関屋の白山神社!!

下関屋の白山神社
所在地:佐賀市富士町大字下関屋



高野岳にある白山神社は、現在も神仏混交の名残りをとどめている。白山の名は加賀(石川県)の修験道と関係があると考えられる。事実古い鳥居に「白山彦山大権」とある。奥の院の石灯籠には、元禄11年(1698年)の銘がある。この奥の院には近年まで山伏の参籠があり修験道場であった。ここは白山や豊前(大分県)の英彦山と同系統の天台宗系道場であったが、弘法大師伝説により、この地が「高野山に似たり」という理由から高野岳と名付けられ、真言宗の良源寺が同居することになった。この社は永延2年(988年)この地頭領関屋源八郎義家(刑部卿貞鑑親王6世の孫)によって加賀の白山権現より勧請したと伝えられている。この場所は先記した修験場のあったところで、『鎮西誌』にも「応和二年(九六二)二月二十五日初践開肥前国北山之峰 令修験山入部修行 以牛尾山別当爲先達」などとみえる。関屋源八郎の後裔が明治20年ころまで36代宮司をつとめた。
出典:富士町史下p.395








高野岳奥の院 弘法大師尊像




新四國八十八ケ所霊場です。




●地図
  
  • LINEで送る


Posted by 21世紀県民の森  at 11:09Comments(0)富士町情報